僕がバイク旅の動画を撮る理由|“走り出すきっかけ”をくれた一本の映像

バイク旅を、どう撮るか?
写真でもメモでもなく、動画という形で残す人が増えている。
でも、カメラの設定や構図を考える前に、一度立ち止まってほしい。
「なぜ動画を撮るのか?」
僕が動画を撮り始めたのは、一本の映像に心を動かされたことがきっかけだった。
写真では伝わらなかった空気の温度、風の音、走り抜ける感情——
それらを残したくて、カメラを回し始めた。
この記事では、僕自身が動画を撮るようになった理由を振り返りながら、
「動画で撮ることの意味」を考えていく。
撮影や編集のノウハウを学ぶ前に、まず“なぜ撮るのか”を一緒に見つめてみよう。
はじめに
映像には人を動かす力がある。
僕がバイクに乗るようになったのはある1本の映像がきっかけでした。
林道を走って草原へ抜け、湖畔にテントを張る。
アルコールストーブに火をつけてお湯を沸かし、豆から挽いたコーヒーを淹れる。
流木に腰掛け、淹れたてのコーヒーを飲む青年。
木の枝をナイフでバトニング、フェザースティックを作り火をつける
日が暮れて、小さなテーブルの上で夕食を作る
焚き火の光に照らされる青年
セローとテント、富士山が映る画角で星空から夜明けのタイムラプスで動画を締めくくる。
気づけばGooバイクで中古のバイクを調べ、WILD-1に行ってキャンプ道具を買っていた。
最初に買ったバイクはセローではないけれど、バイクを始めるきっかけ、キャンプを始めるきっかけとなったがこの動画だった。
写真を撮ることから始まった
僕はツーリングや旅行に行くとよく写真を撮る。
きれいな景色、現地の食事、立ち寄った建物など、「状況がわかるような写真」を自然と撮っていた。
旅の思い出を家族や友達に話すとき、言葉だけでなく写真と一緒に話すと伝わりやすいということを、肌感覚で感じていたからだと思う。

このときは構図や被写体など何も意識せず、ただ思いのままに撮っていただけ。
撮った写真をLightroom(編集管理ソフト)に取り込み、不要な写真は削除して、その日のアルバムを作って見せる。
家族、友人に写真を見せながら、旅の思い出を話す。
写真を見せると「そこは昔いったことがあるところだ」とか、「今はこんなふうになっているんだ」とか、相手の記憶を思い起こさせるきっかけになる。
ただ一方的に思い出を語るだけではなく、聞いている人も自分の経験を話してくれる。
旅の思い出話を通してお互いを理解する。
写真は「伝える手段」だった
写真の限界と動画への挑戦
バイク旅では絶景ロードを走る。
立ち止まって写真を撮れればいいが、その道1番の絶景ポイントに限って停車できない場所だったりする
この景色、感動を伝えたい。でも写真は撮れない。
それなら「アクションカメラをヘルメットにつけて動画を撮ろう」と思った。
Goproを買ってヘルメットにマウントして動画を撮る。
家に帰って見返してみると、確かに綺麗な景色が映っているけど、何か違う。
流れる景色が映っているだけで、立体感がない。音も風切り音しか聞こえないし、あの時の感動が全く伝わってこない。
最初はそんな感じで、ただ動画を撮るだけじゃ何も伝わらないし、もはや写真の方がいいのでは?と思うことも何度もあったが、試行錯誤を繰り返した。
iPhoneで写真を撮る感覚で動画を撮る。
絶景だけでなく、そこに至るまでの過程。
その場所の雰囲気を補完するBロール。
カメラを置いて、走行シーンを撮ってみる。
いろいろなカットを組み合わせて編集することで、ただの絶景ロードを撮った映像から、1本のバイク旅物語のような動画が作れるようになっていった。
動画も写真も、「伝える手段」としては根本的には同じ。
だけど決定的に違うのは、説明が不要ということだ。
- 写真 視覚だけ。説明が必要
- 動画 映像+音+編集。説明がいらない
写真では、たくさんの写真を見せながら説明することで相手に伝わるが、動画は編集して1本の作品にすることで、説明が不要になる。
写真では視覚情報しか入ってこないが、動画なら音を伝えられる。音は感情を伝えることができる
視覚情報としての映像と、ストーリーのための編集、感情を伝えるための音。これら全てを使って旅を伝えることができるのが動画。
動画をSNSに上げると、意外と見てもらえる。数百、数千、時には1万を超える再生数になることもある。見た人はコメントで、「今年行きました!」とか「昔行った時のことを思い出しました」とか、各々の思い出話を書いてくれる。
そんなコメントの中で特に心に残っている言葉がある
「旅はこんなにも美しんですね。」
旅はいいことだけじゃない。そこに辿り着くまでの苦労、時には大雨に降られてぐちゃぐちゃになったり、思い通りにいかないことだってある。
僕が映像で残していたのは「旅のきれいな部分」だけだった。
「そうか、僕は旅の美しさを伝えたくて動画を作っていたのか」
自分でも分からなかった自分のやりたいことが、視聴者のコメントによって具体化された瞬間だった。
写真の時は、直接話す人にしか共有できなかった自分の旅の思い出が、動画にすることでたくさんの人に共有ができる。
自分の映像を見て、誰かの思い出を喚起させる。行ってみたいと思ってもらえる。そのことが嬉しくて、また次の動画を作る。
気づけば動画を撮ること自体が旅の楽しみの一部になっていた。
バイク旅を1本の動画に仕上げるには多くのカットを撮らないといけないし、「撮りたい画」のために同じ道を何往復もしなければいけないこともある。
とにかく大変で時間がかかり、行ける場所が減ってしまうこともある。
それでもいい映像が撮れたときの嬉しさや、それを編集して1本の動画に仕上げられた時の達成感は計り知れない。
だから僕は、今も動画を撮り続けている。
僕がバイク旅の動画を撮る理由
写真よりも何倍も伝わる
写真1枚を見せるより、絶景ロードの美しい部分を動画で見せる方が反応は全然違う。
でも大事なのは反応じゃなくて、あのとき自分が感じた感動が、映像を通して少しでも伝わったら嬉しいと思う。
動画はストーリーを伝えられる
出発、立ち寄った場所、そこで見た珍しいもの。
旅には必ずストーリーがある。
動画はそれを「作品」として残すことが出来る。
あのときの景色だけを思い出すのは難しい。
でも「急に雨に打たれてずぶ濡れになったこと」や「今にもクマが出そうな北海道の林道を走った記憶」は今でも鮮明だ。
写真でもストーリーを伝えることはできなくはないが、そこには本人の解説が必要になる。
動画なら、編集でストーリーを伝えられて、環境音、BGMの使い方次第ではその時の感情をも伝えることができる。
撮っている時間そのものが記憶に残る
動画を撮るのは時間がかかる。
写真ならシャッターを切るだけだが、動画はそうはいかない。
「どう切り取るか」を考え、人がいなくなるのを待って環境音を録る。
そうした“撮影に費やした時間”までも、映像を見返すことで思い出せる。
カメラを置いて走り、また戻って回収する。
その短い時間で感じた岩の質感や草木の匂いまで、映像を見ると思い出す。
写真しか撮っていなかった頃はぼんやりしていた周りの空気感も、動画を撮り始めてからは鮮明に蘇るようになった。
「誰か」の走り出すきっかけになりたい
僕がバイクに乗るきっかけは一本の動画だった。
「すごい!」と思う瞬間を見たら、自分もやってみたいと思うのが僕の性分だ。
僕が映像で心を動かされたように、今度は僕の映像で誰かの心を動かしたい。
その欲求が僕が動画を撮り続ける一番の理由だ。
常に撮るわけじゃない
僕がカメラを持って行くかどうかは、2つの観点から判断している。
- 旅の種類によって(人生の目標か、週末の気分転換か)
- 映像の価値によって(ストーリーがあるか)
常にカメラを回しているわけではない。
そもそもカメラを持っていかないことだってある。気軽な近場ツーリングや、初対面の人と走るとき、ただ走りたいだけのとき。
「この旅を伝えたい」と思わない限り、僕はカメラを持っていかない。
「いつ撮れ高があるかわからないから常に撮る」という考え方もあるが、僕は反対だ。
計画された旅の中で起きる偶然はストーリーの一部になるけれど、ただのハプニングは映像に残す価値がない。
仲間内で共有するだけの動画ならそれでもいいが、ストーリーがなければ、動画は断片でしかなく、ただの記録に過ぎない。
週末の気分転換のツーリングなら、たまたま出会った景色をスマホで撮れば十分だし、時にはそれくらい気軽な旅も良い。
撮らない時と撮る時をはっきり分けているからこそ、撮る時は徹底的に撮る。そのメリハリがあるから無理なく動画制作を続けられている。
動画を撮り始めて変わったこと
記憶を鮮明によみがえらせる
写真では思い出せなかった音や空気感までも、映像を見返すと蘇るようになった。
旅をより深く観察する
「この雰囲気をどう伝えるか?」を考える時間が増えた。
今までは見過ごしていた草木や花、特徴的な看板、アスファルトの質感まで目に入るようになった。
人とのつながりが生まれる
動画をSNSに投稿すると「映像がきれいですね」「北海道に行きたくなりました」といったコメントが届く。
その一言が本当に嬉しくて、画面の向こうに旅の仲間がいると実感できる。
「バイクの動画を作ってる人」として認知され、声をかけてもらえることも増えた。
自分の成長を実感する
動画制作には膨大な工程がある。写真とは大違いだ。
1本目の動画と今を比べれば、まるで別人が作ったようにクオリティが違う。
「どうすれば最後まで見てもらい、感動を伝えられるか」──その問いを繰り返し改善することで確実に成長してきた。
次の旅までに、機材の更新や撮り方の練習、新しい表現方法への挑戦を繰り返す。
気づけばその過程すら楽しくて、生産的で、僕の旅をより豊かなものにしている。
終わりに
今でこそこうして「僕が動画を撮る理由」を語れるようになったけれど、最初のきっかけなんて単純だった。
「なんかかっこいい!」──それだけだ。
興味を持ったら、まずは始めてみてほしい。最初はきっとうまくいかない。
でも大丈夫。僕もそうだった。
うまくいかなかったのは、あなたが悪いんじゃなくて「やり方」の問題だ。
このシリーズを読みながら試してもらえれば、誰でも短時間で“いい感じの動画”を1本つくれる。
何度も読み返して実践し、その繰り返しを積み重ねれば、必ず自分の映像が形になっていく。
最初の一歩は、ほんの小さな「かっこいい!」で十分だ。
その一歩が、あなたの旅をまったく新しい体験に変えてくれる。
